RIVALS EYE【第三節:[フキョウワ]】

RIVALS EYEとは

ライバル達が熱いホンネをぶつけ合う

30リーグ参加団体による公式戦の観戦レポートです

今回は第三節『D地区×虹色りきゅーる』を

[フキョウワ]がレポート

はたしてライバルはこの試合をどう観たのか?


【[フキョウワ]レポート】

30LEAGUE(火リーグ公式戦)第三節

D 地区×虹色りきゅーる

2023年4月26日(火)18時回

観劇位置:最後尾・上手壁際から二番目


【総評】

「~として観た時に・・」なんて、あるジャンル性を前提にお芝居を観るのは無粋かもしれない。しかし、一方でジャンル性というのは武道における「型」のようなもので、確立されるからには、れっきとした理論と実践の歴史を感じさせるものであり、その構築を前提に“型破り”な作品が生まれてくると私は信じていたりします。

今回の両作品、個人的にはそれぞれ、あるジャンル性のようなものを前提に見てしまっていた様に思います。そして、そのジャンル性とどう向き合ったのか、そこが私にとっては焦点となったように感じます。


【(先攻)D 地区:ダークディスコ】

TVCM やネットミームを決め台詞的に、あるいは会話の応答として使用する軽妙洒脱な台詞回し。脈絡のない応答やナンセンスな対応を確かな熱量で体現する役者。身一つで世界が展 開していくテンポ感は個人的に好きなタイプで、揺るぎない熱量で体現されていたことは、と ても好印象でした。

やりとりの無意味さや、対応の不謹慎さは、例えばベケットや別役実を臭わせる、いわゆる「ナンセンスもの」の体裁だ。作中の一番の焦点、「老人の自死とその老人の職員への恋心が実はおそらく全く関係がない(少なくとも私が読み取った限りでは、関係ないものとして描かれ ていた)」という顛末は、何かと因果関係を求めてしまう我々へのアンチテーゼであり、「そういうのと関係なく人は別な理由で亡くなる」ということを強く打ち出していたのかもしれない、と、今書きながら考えたりもしました。 しかし一方で・・・。「ナンセンスもの」とするには、比較的「理解の範疇」だったようにも思えます。ぶっ飛んだやり取りのように思えて、なんとなく想像の域に留まり、理解の追い付く内容だったようにも思えました。それは脚本なのか、演出なのか、演技なのかはわからない。ともかくも、この「理解の範疇」ということが「ストーリ性」を想起させ、場合によっては脚本構造の甘さ、使われるネタのコンセプトの無さ、更には人の死を軽んじ、人の恋心を茶化し、あまつさえ死体にネタの様にキスをしてしまう不謹慎さ、といったことを感じさせる要因になったかもしれない、と思います。「ナンセンスもの」として捉えるか否かが作品にとっての分水嶺であり、個人的には、もう一段階ぶっ飛んでいてほしかったと感じました。(実際、私は観劇のリアルタイムではかなり不快感を感じていたように思う。)

個人的には、どういう意図でこの作品を創作したのかすごく聞いてみたいと感じました。それが「ナンセンスもの」なら個人的にはもっと好き勝手にやってしまってよかったのではないかと思うし(いや、やはり因果関係を感じてしまう人間へのアンチテーゼとして、因果関係を臭わせるためにナンセンスさが調整されていたのだ、という可能性は大いにあると思う)、実は「ストーリーもの」だったのなら、逆に、どうして「ナンセンス」な体裁をとったのか、とても興味が沸くそんな作品でした。


【(後攻)虹色りきゅーる:夢の中の軌跡】

衣装のビジュアル、小道具の出来、当日パンフから、予約特典まで前回のこだわりポイントはそのままに、各面でパワーアップが成されていたなぁ、という印象でした。まず、照明。少し絞ってあげただけで、とても世界観を醸し出すのに良い効果を生んでいたと思うし、何度か挿入される“ジャーナ”が絵を具現化するシーンはすごく印象的なものになっていたのでは、と感じます。脚本も“ジャーナ”と“ダロック”に焦点が絞られ、比較的すっきりとした印象を受けました。 前作からのシリーズものということでギリシャ神話モチーフの「ファンタジーもの」の体裁をとっていたと、思います。しかし、改めてこの「ファンタジーもの」ということが、作品を作品たらしめる上での難しさの要因になっていたと思います。

少し話は逸れますが、私は割とファンタジー作品には触れてきた方だと思っていて、 中学生の時分はトールキン、ミヒャエル・エンデ、ラルフ・イーザウなんかを読みふけり、いまだに指輪物語の映画は見返したりしますし、よくよく考えれば、初めて見た演劇的なものも 劇団四季の「夢から醒めた夢」と、ファンタジックな世界観の作品でした。そんな私からすると、「ファンタジーもの」というのは綿密に提示しきれば強固で味わい深い作品になるものの、「千丈の堤も蟻の一穴より崩れる」、ではないですが、一瞬で崩壊してしまう、そんな危うい性質を持っているものだと感じます。

例えば、作中にでてくる「非国民」、「問題ナッシング」、「ぼちぼち」といったワード。これらが連想させるイメージが、どうしても作中の世界以外を想起してしまい、「夢の中の軌跡」 における世界観のノイズになっているように感じました。そして、このノイズが「ファンタジーもの」では特に致命傷になると、私なんかは感じます。もちろん、ノイズに対する閾値は人によって違うとは思いますが、少なくとも私にとっては、夢から醒めてしまう要因になるものでした。また、詰め込まれる設定部分に関しても台詞の断片としてではなく、なにか別な表現として、ありありとその情景が浮かぶような描写がなされると尚よくなるだろう、と感じました。(30×30 の制限の中では厳しい部分があるかもですが)

脚本・演出の方の頭の中には、様々な設定、情景、世界性が広がっているのだと思います。そのことは純粋に羨ましく、すごいことだなあ、と改めて思います。シリーズもの、ということで、一連の作品として観たらまた印象が変わるのかも、とは思いますが、単体作品として観た時、あるいは「ファンタジーもの」として観た時、もう一段階、精緻さが欲しくなる、そんな印象でした。


2023年5月30日(火)

演劇創造ユニット[フキョウワ]:下野佑樹

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